「岬のマヨイガ」の本番が終わり、次の稽古合流までのかすかな合間。
読みたい本が山積みで、ぼーっともしたいし、稽古の準備やデザインの仕事、打ち合わせ。
toDOがたくさんあって、結果、ひとまずぼーっとしている。
なんとなく、興がのったので、iPhoneへの本日のメモを貼り付けてみる。
(僕はふと浮かんだ言葉をiphoneにメモしています。なんだか今日はたくさんメモしました)
特に意味は何もないです。
興がのっただけです。
3/23
・「うまくいくかどうかの保険がない」
「まあ、いいやしょうがない」
「何にも起きないかもしれないけどいいや、事故になっても知らん」
そんな気持ちで板の上に立たないと、「〜っぽさ」からは先へは行けない。
むしろちゃんと事故じゃないとダメだ。事故っぽさになる。
・心が動くまで、棒読みでセリフを言うのは自由だけれど、それは「私は受信はするけど発信はしないよ?」という意思表明に他ならない。心なんて動かなくたって行動はできる。というか、行動がすべて。
・カウンセラーになってみたい
・エロスにもっと触れたい
・人の心は何層にもなっている
その薄皮を一枚一枚ピンセットでめくっていくことが僕は好きだ。
この薄皮の表だけを見て人を非難するのは嫌いだし、薄皮の奥の柔らかい部分に土足で踏み込む行為も好きではない。
・快感を欲する慣用句は「味覚」を使用したものが多い気がする。
「舌なめずりして待つ」
「しゃぶりつくしたい」
「味わいたい」
・何にもやる気がおきない
・甲子園球児が宣誓的な言葉を語ったり、普段人前で話す機会の少ない人が人前で何かを読み上げる際、えらく棒読みなことがある。多々ある。あれは、人前でしゃべることに慣れていないからという理解がおそらく一般的なのであろうと思う。
さて、本当にそうだろうか。
僕は、彼らは「棒読みでしゃべる一般人」を演じているんだと思う。その方が安全だから。あるいはステレオタイプに則っている。「棒読み」でしゃべるのが「普通」。
英語を上手に話す自信がない人ほど、ジャパニーズイングリッシュを死守してしゃべってしまう現象と似ている。
そして、どちらももったいないことだと思う。
人前で誰かに話す必要がある時、棒読みである必要はないし、僕は訓練などなくとも、そもそも人は誰かに何かを伝えようとして語れば棒読みには決してならないんじゃないかと思っている。
(厳密には、棒読みとは語り口が平坦かどうかではなく、誰にも届かない言葉を指すのだと思う。僕はそう思っている。平坦にしゃべったって、人の心を打つ言葉はいくらでもある)
・1週間ぐらいボーっとしたい
・「怒り」の下には、「悲しみ」や「不安」が潜んでいる。僕は、これは、絶対だと思っている。「怒り」は二次的なもの。必ずもうひとつ下のレイヤーがある。
・ラジオをやりたい、やる
・ダンスを習う
・ご近所で合気道もやってみたい
・水をモチーフに絵を描きたい
↓本日の多摩川
水たまりの中の3脚のベンチが美しくて、近くで写真を撮りたかったけれど、ソフトボール部がいたので諦めました
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