学生の頃以来だから、10年ぶりぐらいに村上春樹を読んでいる。
学生のころに読んだと言っても、そう多くはない。鼠3部作と「ダンスダンスダンス」、短編をいくつか、「世界の終わりと〜」、「アフターダーク」そのぐらいかなと思う。
たまたま以前、東谷英人氏に「いつか肖像画を描かれたい」と言われ、それが村上春樹の「騎士団長殺し」が肖像画家の話であることに由来すると聞き、よし久しぶりに村上春樹を読もうと、本屋でこつこつ4冊買って読んだ。
僕は好きです。「騎士団長殺し」。画家の話であることが、まず僕の興味を引いたし、この世界の必然やメッセージに関すること、超自然的な出来事、どうしようもなく導かれてしまう引力のようなものにグイグイ引っ張られながら読んだという感じ。
感想をネットで調べてみると、随分と評判が良くない。「村上春樹はもうダメだ」的なコメントをたくさん目にする。ふーん、そうなのか、と思いながら、図書館でまた数冊借りて、今は何だかんだ読んでいなかった「ノルウェイの森」を読んでいる。
「ノルウェイの森」を読みながら、僕は「騎士団長殺し」の方が心地いいなと思う。いや、「ノルウェイの森」ってそもそも心地のいい小説とかじゃないのかな?と思うんだけど。まだ下巻の途中。
何となく不確かで居心地の悪い午後と、ザラザラした自暴自棄な夜をそのまま引き伸ばしてキャンディにして、ずっとそれを舐めさせられるみたいな、
味のなくなったガムをずっと噛ませられるようなそんな感覚。
ずっとセックスの話。ノルウェイの森。
存在の不確かさを肉体感覚でうっすら繫ぎ止めるような。多分、そういう感覚が僕はあまりないというか、そういう穴にすっぽり自分を浸さないように生きてきた気がするからか、それとも喪失の絶望感のようなものを僕が知らないだけなのか、気だるく甘美な虚無感を口の中に含み続けていると、「ええいっ!」ってくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てたくなる。
これは本が面白い面白くないとかそういう話ではなくて。
短編を読んだ時の感覚に近い。
以前、村上春樹の「納屋を焼く」とか「パン屋再襲撃」とかを読んだ時に、短編は長編より、不安定な宙吊り状態にされてイヤだなあという気持ちになった。「ノルウェイの森」はそれに少し近い感覚。
不安定な感覚や喪失感は、僕の好きなポールオースターもそうなんだけど、ちょっと違うな。オースターの方がもっとカラッとしている。
まあ、まだ下巻の頭ぐらい。
感覚がポンっと言語化できたので、メモしてみた。
さあ、続きを読みますよ。
読み終わったので追記
何故追記しようと思ったかと言えば、下巻の途中から、一気に印象が変わったから。
それまでずっと小雨が降ってジメジメしていたような印象から、一気に輪郭がグンと立ち上がった気がした。
「ああ、そうか、これは青春小説なんだな」と明確に認識した瞬間だった。青年が大人の階段を登った瞬間に、一気に物語は、僕にとって、(そう!まさに僕にとって、ではあるけれど)身近なものになった。傷を負った青年が大人になる時に、その側に傷を抱えたまま強くなった(そうつまり)大人が側にいた、ということも、実に腑に落ちた。
正直、それまでは、面白いエピソードはたくさんあるものの、いつまで経っても世界そのものの温度は変わらず、どう読んだらいいのか分からなかった。出来事は色々あるけれど、主人公はずっとぬかるみからは決して出ようとしないから、印象が変わらないというか。
簡単に言えば、作品をなかなか愛せずに読み進んだ。セックスの描写もずっと、なんだか薄っすら不快であった。僕、この(小説の中の)世界でセックスしたくないなと思った。
それが、後半で、主人公のワタナベ君が大人の階段を一歩踏み出してから、大きく作品への印象が変わり、セックスの描写も違和感がなく受け止められるようになった。まあ、つまり僕が我が事として読めるようになったから、気にならなくなったのだと思う。描写の仕方が変わったわけではない。
緑の手紙も大好きだし、レイコさんの手紙もとても好きだ。
最後の最後は、まだ理解ができていない。肚に落ちていないし、分からない部分もあるし、もう少し短くてもいいかなと思うことや、女性観に引っかかりもある。もう少し村上春樹を読んでみよう。
とにかく後半は楽しんで読めたし、以降は「騎士団長殺し」にはなかった、とても強い意志のある言葉がどんどん出てきて、素敵でした。