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執筆者の写真ふじおかんたろう

グラビアとか


いろいろな立場の人の痛みが、少しずつ表面化される時代において、そのことに色々な立場の人がいて。

ふと、コンビニのヤンマガとかを目にして、そこに映るアイコンとしてのグラビアアイドルがいて、当たり前に性を売り物にした青年誌があって、「ああ、こういうのも、いずれおかしいと言われる時代がくるのかな」とふと思った。

僕はまったく青年誌を読まずに育ったので、なんなら少年ジャンプさえ読まずに育ったので、グラビアアイドルという大通りを通らずに生きてしまった。ヤンマガもヤンジャンも違いが分からない。水着のアイドルを全然見ずに育った。

だから、この青年誌(っていう定義でいいの?)のセクシー写真たちへの距離感が分からない。これを見てムフフと思う、思った男子たちの青春を否定しようとも思わない。

でも、「ああ、この雑誌の表紙が陳列することで、密かに傷ついている人たちも、いるのかなあ」とふと思った。

とは言え、では、「グラビアアイドル撲滅!!」みたいな話になると、それはそれで生きづらいよなあという気もした。

世界の繊細さをすべて汲み取ろうとすると、世界自体がすごくナイーブで傷つきやすく、互いが互いに踏み込むことを恐れる時代がくるのではないか。そんな危惧がある。

同時に是正されるべきことは、断固としてある、そういう思いもある。

少し話はかわるけれど、人はどんな苦しみを味わおうが、その苦しい体験を価値に変えないと生きていけない。その苦しみを経験として肥やしにして、それを他者への共感覚として世界を豊かにしないと生きていけない。

つまり、苦しみは時に人に学びを与え、哲学を与え、成長させる。

これは僕は事実だと思う。

そして、これがややこしい。

立場の強い人間にとっては、「あなたは立場が弱いと言っているけれど、今幸せそうに生きているじゃないか」と言えてしまう。

「そりゃあ、どんな境遇だろうが幸せを求めなきゃ生きていけないから、こちとらなんとか苦しみから価値を見出したり、不幸を幸福と読み替えて生きているんだよ!」というようなことが、伝わらない。

奴隷には奴隷なりの幸福があるじゃないか、というような論理が通ってしまう。

そして、これは、強者と弱者の構造だけではない。

それぞれ、自分の体験を肯定しなくては、前向きに生きられない。時に肯定できなくて躓くわけだけれど、なんとか必死こいて肯定してきた過去を、人は守ってしまう。

「あの苦しみをなんとか喜びに変えたのに、なんでその屋台骨を崩されなければいけないんだ!あの苦しみは俺の確かな肥やしなんだ!」

その感覚は、理解できるし、僕もきっとそういう部分があるだろう。

公園の遊具で危険な遊び方をして、もしかしたら死んでいたかもしれない過去があっても、僕はあの遊具を公園から取り除けと思えないのだ。何だか貴重な体験ができたと、僕は思えてしまうのだ。

すごく難しい。だって、ある苦しみなしに自分が今の哲学をもっていることは、否定できないのだから。

ただ、その感覚を元に、他者の苦しみを「そんな苦しみでへばってしまうようならダメだ。軟弱すぎる」と切り捨ててしまうのは、違う気はする。いや、分からない。分からない。

きっとしばらくは、昭和の大スターみたいな、スケールの大きい偉人は生まれづらい時代に、とっくに突入している。

もう少しナイーブな時代が続くと思う。

傷ついて、それでも声をあげて戦っている人を否定するつもりは、全くない。応援している。いや、そんなこと、軽々しく言えないやという思いもある。

ケラさんの「ダメ出し」についてのツイートを読んで、こんなことを書いた。

演劇の現場に限らずすべて繋がっている話だと思ったから。

僕は「ダメ出し」という言葉にどちらかというと違和感を持っている人間だ。同時に「ダメ出しって言葉はよくないとか、ナイーブ過ぎて面倒」みたいな意見を全く理解できないという訳でもない。

ちなみに、わがままなことを言えば、「最近の若者はナイーブで軟弱で真面目で保守的だ、昔は云々」とか言う意見を耳にすると、たまにうるせーと思う。あなたの時代とは違うし、なんなら僕たちは今の時代を作りたくて作ったのではなくて、あなたたちの世代の結果が今の時代です!とは思う。

その上で、話は戻り、人は苦しみから哲学を得る。

それは圧倒的に否定できない。

だからどんな時代であれ、苦しみをなくすことより、苦しみを分かち合える時代が来ることを僕はのぞんでいる。

まだまだ掬い上げられるべき苦しみはたくさん存在する。そこに手を差し伸べられる人間でありたい。

同時に、苦しみを顕微鏡で眺めながら丁寧にピンセットで取り除くような時代を、僕は決して望まない。決して。

ヤングマガジンを「アホだなあ」と誰かと笑いたい。

心の苦しみは、その瞬間、浜辺から海に突き落とされれば消える。身体の危機は精神の危機を超える。(これは高校の時に気づいた。リストカットとかはこの原理だと思う)

その上で、

その論理を語るなら、浜辺から、

誰が、責任をもって、溺れたその人に手を差し伸べるのだ?

そういう話だと思う。

「ダメ出し」という言葉のもつ意味は、きっと僕とあなたで違う。それは、「ダメ出し」論に限らない。これもありであれもあり、そんな時代がいいなと思う。

自分が乗り越えた苦しみ、そこから掴み取った喜びを、人は手放せない。

ちょっと考えがまとまらない。

演劇観たって好き嫌いあるのだ。

それも否定できない。

できるこのとなら、観た演劇全部「最高だった!」と言いたい。しかし、決してそんなことは起こらないしありえない。

今のこれらの言葉だって、あれもありこれもありを語っておきながら、苦しみなんて微塵もない世界などという奇妙な未来を望んでいない、そんな線引きをしている僕がいるのだ。

何故しばらくぶりの、ふとした投稿がこの内容なのか、自分でもよくわからない。

おやすみなさい。


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